My-yuki Project

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2000年12月 5日作成

「MOONLIGHT」
 もう一杯、という牧原の言葉を断りきれず、最後の暖簾をくぐったのは終電まであと僅かと言う頃であった。
斉藤は郊外の安アパートに1人暮しである。
左腕をちら、と気にしながら酒を酌み交わす。

 牧原は気の良い男である。
斉藤と牧原はK大で同じ研究をしていた。
牧原は田舎から単身上京し、2浪してK大に入った苦労人である。
学年で1つ、年齢で3つ上のこの男を斉藤は心から尊敬していた。
彼が現在の会社に就職した後を追って、また斉藤もこの会社を志望した。

 ――彼は人生のなんたるかを知っている――

 牧原に対する斉藤の評価はこのようなものである。
陽気なこの男は酒を飲むとなかなか離してくれない。
電車の時間を気にしながらも、しかし斉藤は牧原とのいつ終わるとも知れぬ他愛もない議論を楽しんだ。



 最終電車をぼんやりと待ちながら(幸いにも牧原は最終の時間を告げるとあっさりと解放してくれた)、斉藤は心地よい地下鉄の涼しさに酔っていた。
今日まで続いた仕事も一段落し、徹夜の続いた体に酒は効きすぎるほどよく沁みた。
一人ぼっちの自宅に帰るのがまるで小学生のように楽しみであった。

 連日の猛暑の谷間は、夜の闇に密やかな秘め事めいた空気を流し込んだ。
駅から住宅地へのバスはすでに出てしまっていた。
新興住宅地のポプラ並木を斉藤は鼻歌交じりで歩いていった。
昇ったばかりの月が、造成地の向こうに細く輝いていた。

 マンション群を突き抜けるように道は続いている。
マンション群の私道であろう。
特に近道にはならない距離なので、いつも斉藤はこのマンションの周りを通って自宅へ帰っていた。
その只中、あと一棟、と言うところで斉藤は立ち止まった。



 誰かが、いる。



 最初の視線の、さらに遥か高く、彼女は立っていた。
いや、見えるはずはない。
こんなに暗い夜である。
きっと何かの幻に違いない。

 斉藤は目をこすった。
依然彼女はそこにいた。

10F建てのマンションの屋上、そこに彼女は立っていた。
――こんな、真夜中に、女の子が?――
斉藤は酔いがいっぺんに覚めた気がした。

 涼しい風が吹いた。
遠目からでは分からないが学校の制服を着ているようであった。
ひらひら、と見えるはずのないスカーフが、一瞬、彼の視界の中で揺れた。

 彼は狐につままれているような妙な感覚を感じながら、彼女を見つめた。
何を見ているのだろうか、うつむき加減の彼女は、それでもなにかをしっかりと見据えている印象を与えた。

 ――ああ。月か。
斉藤は彼女の視線の先を見やった。
三日月よりも細い月が、先程より大分上まで上がってきていた。

 なぜ、月など見ているのだろう?
斉藤はぼやけた思考の中で思いを巡らせた。
制服のまま、こんな時間に微動だにせず、月を眺める少女。
しかし彼女の姿は美しく見えた。
斉藤の遥か頭上の小さな黒い塊でしかないシルエットであるのに!



 翌朝、飢えた子供に食べ物を与えた直後のように、彼の体は睡眠を際限なく貪った。
貴重な休日の半分は跡形もなく消え去ってしまったが、あの妙な感覚は残っていた。

 狐につままれたような――幻のような感覚。
見えるはずのない少女の細部まで見たような感覚。
その黒い点でしかないシルエットに抱いた――それこそ妙な――…

 斉藤は自分が相当酔っていたことを思いやった。
夢と言えば夢かもしれない。
あんな時間に、繁華街ならともかく、閑静な住宅地に起きて外に出ている少女。
あんな時間に制服を着た少女。
じっと月だけを眺めている少女。
すべてが夢だったのだ。
そうでなければ、あんな高いところに入る人間を見つけることなどできるはずはなかろう?



 夕食を食べ終わり斉藤はふとトイレットペーパーが無いことを思い出す。
のろのろと立ち上がり、歩いて10分ほどのコンビニへ向かう。
そして、その帰りに、彼は再び見た。



 蒸し暑い空気を打ち消すかのように月を見つめる細い体を。

 月は、昨日よりも心なしか高い位置にいるような気がする。

 じっとりとした空気の中、彼女は――暑くはないのだろうか――立っていた。



 斉藤はすぐに理解した。
――やはり自分は彼女に会いたかったのだ――
トイレットペーパーなど明日でも――それこそ明後日でも――構わなかったのだ。
なぜだか理由はわからない。
だからこそ外出するのに理由付けをしたのだ。
斉藤は10分ほどそこに佇んでいた。
犬の散歩をする男性が一度通りかかったが、斉藤のことは気にも留めなかったようだった。
その間、やはり彼女は微動だにしなかった。



 それから毎日、斉藤は彼女を見ることを日課にした。
自分でもばかげている、と思いながらも残業をすすんでやった。
帰る時間が遅くなるのは苦ではなかった。

 タイミングが良かったのか悪かったのかはわからない。
「彼女」のために残業を始めた途端、急に仕事の量が増えた。
牧原が何度か飲もうと誘ってきたが、その度に頭を下げた。
月は日毎に丸みを帯びていった。

 彼女の正体――があるかどうかは別にして――については深く追求しないことにした。
もしかして天体観測でもしているのかもしれない。
しかし、それではあまりに観客が間抜けである。

 正体が白日の元にさらされてしまったら、それはきっとつまらないものになってしまうだろう。
彼女は月の薄明かりの中で見るからこそ美しいのだ。

 ――お前は、ロマンチストだな。
大学時代に牧原に言われた言葉を思い出す。
そうかもしれない。
非日常に触れること…それは子供の頃秘密基地を作ったときのように心が弾む。
しかも、子供の頃とは違って、それには背徳の匂いさえするではないか。
それこそ陳腐なセリフだ、と思わず自嘲する――これもまた面白い。
きっと、自分が絶対に入れない世界を安全なところから覗く感覚なんだ。
それを、ロマンチストというのかどうかはわからないけれど。



 その日、斉藤は久々に牧原の誘いを受け、会社を後にした。
――オゥ、斉藤よ。
――お前は絶対エラクなるぞ、俺が保証する――
――覚えてるか?追い出しコンパでお前が大泣きしながら飲んでヨォ…飲みすぎて店の看板に頭突きして――
牧原は普段にも増して饒舌だった。
――看板が凹んで…いや、穴が開いたっけか?
――この石頭が。
がはは、と楽しそうに笑う。
――サケ!酒追加ァ――
――斉藤、お前も飲め!ん〜?
空々しい明るさが斉藤にからみつく。
違和感がまとわりつく。
なんだ?これは。

 牧さん、どうしたんすか――と聞いてみたかった。
何が彼をそうさせたのか。
しかしそれはなぜかためらわれた。

 ――「彼女」ではない――「彼」からは非日常の匂いはしない――。
正体は、白日の元にさらすべきなんだ――
この、妙な違和感の正体は――

 しかし、何も言い出せないままに徳利は空いていった。
斉藤は考えるのを止めた。
言いたければ、牧原が自分から言うはずだ。
例え、俺と牧さんの間でも…踏み込んではいけない一線がある。
長い付き合いの中で、その一線が明確に引かれたのがたまたま今日だっただけだ。
…きっと。

――お前は絶対エラクなるぞ、俺が保証する――
――だからな、おめぇは…

 案の定終電を逃し、しばらく待ってタクシーに乗り込む。
牧原は既に別のタクシーに押し込んである。
この時間でも、まだ間に合う。
斉藤は牧原の顔を思い浮かべる。

 ――いつもは割り勘なのに、今日はおごる、と泥酔に近い牧原にしつこく言われて断りきれなかった。
断らなかった理由の半分は――こんなにしつこい牧原は初めて見た――という驚きからかもしれない。
勘定の際にちらと牧原の財布を覗いたが、牧原の自宅は少々遠い。
タクシーで自宅に帰るだけは残っていないようだった。
運転手に牧原の自宅の場所を簡単に説明し、一万円札を預けた。
酔って眠っている牧原の顔は、全く楽しそうではなかった。



 月が上る時間は毎日違うらしい、と気づいたのは実は数日前である。
少女のいる時間に規則性があることに最初は気づかなかったのだ。
1日、約1時間。
少しずつ月の上る時間は遅くなっていくらしい。
そして、少しずつ月は肥えていった。
もう、そろそろ。

 ――もう、そろそろ。
満月になるはずだ。
正確にいつが満月とは斉藤には判じ難かった。
彼女を見て以来、注意して月を見るようになったのだが、それでも昨日の月と今日の月の違いはさっぱりわからない。
一昨日の月と今日の月なら、まだ満ち欠けに違いが見られるのだが…。

 彼女はそこにいた。
(それは真上よりは下に位置するのだが)斉藤は彼女が遥か彼方、真上を見上げているのを、さらに下から見上げた。

 ――彼女は何かを待っているのだ。

 ざあ、と風が吹き、斉藤は、彼女の顔を見た…ような気がした。
実際には見えるはずがないのだ。
それでも、彼は彼女を見た。
美しい顔だ、と思った。
そして悲しみに彩られている。
その表情は、タクシーの中の牧原のそれに似ていた――と思うのは斉藤の個人的感傷が入りすぎているか。

 月は円を描いた。
どこから見ても円にしか見えない。
彼女は何かを待っている。
きっと、…そう、きっと彼女は満月を待っているのだ。
そして満月はきっと今日ではなく、明日なのだ。

 何かがごとり、と身体の中で音を立てるのを斉藤は聞いた。
何かが変わる音だ。
運命、と言うと大げさだ。
もっと短い間。
きっと明日。
何かが起こる予感がする。

 ――自分で自分の予感に酔っているだけだ。
斉藤は自戒する。
予感を感じることと、その予感が当たることは別の次元の問題だと彼は思っている。
彼女は予感を感じているのだろうか?
――きっとそうに違いない。
そして、彼女の予感が当たるかどうかもまた誰にもわからない。
と、彼は思う。
制服が大きくはためいて、彼女は消えた。



 斉藤は、牧原に辞令が出たことを翌朝初めて知る。
明らかに左遷だった。
牧原はやり手ではないにしろ、人並み以上に働いていた――と思う。
しかしそんなことはどうでも良かった。
どうして、昨日の夜に気づかなかったのか――いや、気づいても仕方のないことだ。
知っていてもやはりその話題に踏み込むことはできなかっただろう。
しかし、と斉藤は煩悶する。


第3話へ(準備中)

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