My-yuki Project
1999年 7月 5日作成
「MOONLIGHT」
| 8時の電車はけだるい音を立てて、もう十分以上走っていた。 何十人もの体臭と生暖かい空気が、車内に充満していた。 大澤はすっかり古ぼけた紺の背広の肩を直し、もう一度吊革を両手で握り締めた。 全身の体重をかけ、ふうと溜息をつくとだるさが全身を襲ってきた。 吊革がきし、と軽い音を立てた。 ――畜生、週刊誌でも買っておけば良かった。 中吊を横目で見ながら思う。 大澤は自分が電車の中で立って眠れるほど器用ではない事を10年間の通勤で嫌と言うほど理解していた。 前にいる幸運な人間達。 ある者はだらしなく口を開けて寝ている。 またある者はスポーツ紙に載っている風俗嬢の写真を飽きもせず眺めている。 皆大澤の父親程の年齢である。 大澤はうんざりして、暇潰しにもう一度中吊を見ようと、吊革に体重をかけたまま、わずかに体を傾けた。 大澤は、彼のすぐ左側に少女が自分と同じ格好で吊革に掴まっているのに気付き、あれ、と妙に感じた。 少女は吊革にぶら下がるように両手を伸ばし、腰を後ろに引いた不自然な姿勢で首を前に突き出していた。 確か、一駅前にはいなかった。 電車は彼が思うより数駅先まで進んでいた。 大澤は彼女に興味を引かれた。 少女は、少女と言うにはおこがましいような年齢だった。 しかし彼女は確かに少女であった。 長い黒髪は腰の辺りまで伸び、その丁寧に整えられた髪は、傷だらけのぼろぼろの靴と好対照を成していた。 服も一目で安物だと判る型崩れのしたワンピースで、彼女の腰から下のラインをなぞって、足元まで長く続いている。 ――二十…四、五、かな… 周りの様子に頓着する様子も無く首と尻を突き出した奇異な格好の「少女」に大澤は興味を覚えた。 いやいや、下手に構ってはいけないぞ、と大澤は湧き上がる好奇心を自制した。 ――ことによると頭がおかしいのかもしれない… 少女はじっとどこかを眺めていたかと思うと、首をすくめ、また首を突き出し、落ち着かない様子であった。 と思うとまた1点を見つめ、車体の揺れにも気付かないほどに目を輝かせるのだった。 電車が少し進むたびに、彼女の顔は明るくなったり曇ったりする。 大澤は彼女が何かを目で追っている事に気付いた。 首を右に左に伸ばし、一心不乱に求めているもの。 何だろう?大澤は少女の視線を辿った。 目の前にはいくつものマンションの窓が右から左へ流れているだけだ。 そしてビルが流れ、遠くの丘の斜面でひしめく住宅街が現れ――。 そして、大澤は見た。 その丘の向こうに、遥かに遠い向こうに、上ったばかりの黄色く輝く月――。 あっ、と大澤は声を上げそうになった。 ――月とは、かくも美しいものだっただろうか、いや、それよりこんな所から月が見えるとは、ああ、こんなにも月は黄色だっただろうか、たしかこの前見たときは白かった、それはいつだったのか?黄色い月など昔見た絵本に出てくるだけの子供騙しだと思っていた――。 彼の思考は一瞬で錯綜し、月は消えた。 あ、あ、とビルに隠れた月を名残惜しく追い――そしてふと隣人に目を向けた。 彼女はあ、と小さく口を開けたままで、愛しい恋人でも見送るような瞳をしていた。 それは先ほどの大澤と全く同じ表情であった。 大澤はしばらくその少女の顔に見とれていた。 とまた、彼女はぱあ、と顔を輝かせた。 つられて彼も窓の外を、彼らの前に現れた月を、再び見た。 電車がごとり、と音を立て、大澤は自分が彼女と同じ顔をしていることにはたと気が付いた。 大澤は一人赤面してうつむいた。 少女はあの不自然な姿勢のまま、一人で月を眺めている。 彼はなるべく疲れた乗客のふりをして下を向きながら、それでも自然と出てくる笑みをこらえられなかった。 |
"My-yuki Project" Produced by Yukie Kanda.